平原遺跡
出典: 一般システム学
平原(ひらばる)遺跡は、福岡県糸島市にある方形周溝墓を中心とした遺跡で、中心となる1号墓からは、40面もの多数の銅鏡が出て、注目された。従来、平原遺跡は伊都国の女王の墓とみなされてきた。しかし、この墳墓は邪馬台国の卑弥呼の墓である可能性があり、その場合、卑弥呼=アマテラス=スケープゴート説が有力となる。
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なぜ平原遺跡は有名でないのか
平原遺跡は、1965年1月18日に、地元の農家が、蜜柑の木を植えようと溝を掘っている時に、鏡の破片を掘り出したことで発見され、在野の考古学者であった原田大六や糸島高教諭の大神邦博らによる発掘調査が行われた。原田によると、遺跡発見直後、糸島新聞のNが現地に急行したが、「面倒になるから、隠したがよかろう」と言って帰り、そのため、農家は、遺跡に溝を掘り続けたとのことである[1]。発見から二週間後に知らされ、前原町教育委員会から管理責任者を委嘱された原田は、破壊された遺跡の修復や銅鏡の復元に私費一千万円を投じたが、学界や文化庁は遺跡の価値を認めることに消極的であった。
その理由は、遺跡発掘の翌年に原田が出版した『実在した神話』にあったようだ。この本の中で、原田は、アマテラス神話がフィクションではなくて、アマテラスのモデルが実在したことを考古学的証拠に基づいて実証しようとしたが、原田の試みは、当時の歴史学者たちの不興を買った。戦後、唯物史観を信奉するマルクス主義者が歴史学界と言論界の主流となり、皇国史観が否定され、日本神話は全くの虚構とされた。当時の「進歩的知識人」たちの目には、原田による日本神話の実証的裏付けは、許しがたい保守反動と映ったらしく、原田によると、文化庁が教育委員会に原田への委嘱を止めるように働きかけた[2]とか、何者かが、売れていた原田の本『日本古墳文化』の出版を取りやめるように版元の東京大学出版会に圧力を加えた[3]といった嫌がらせを受けたとのことである。
原田の話がどこまで本当かはわからないが、平原遺跡を含む曽根遺跡群が史跡に指定されたのが、発見後17年経った1982年で、1号墓出土品が国宝に指定されたのが、それからさらに24年経った2006年というのだから、文化庁が遺跡と出土品の保護に積極的でなかったのは明らかである。また、平原遺跡が箸墓や吉野ヶ里遺跡よりも一般人の間での知名度がはるかに低いことからもわかるように、主流派の歴史学者たちは、この遺跡を軽視し、あまり取り上げてこなかった。しかし、平原遺跡は、箸墓や吉野ヶ里遺跡よりも重要な遺跡かもしれない。なぜならば、この遺跡の1号墓は、卑弥呼の墓かもしれないのだから。
平原遺跡はいつ作られたのか
平原遺跡の中心にある1号墓の建造時期を決める手がかりは、副葬品にある。中でも棺内から出土した瑪瑙(めのう)管玉とガラス製耳璫(じとう)に注目したい。この管玉と同類のものは、日本からは出土せず、韓国の江原道東海市松亭洞一号住居跡や慶尚南道金海郡良洞里三四号木椰墓から多量に出土していて、時期は、共伴している土器や鉄器から三世紀前半から四世紀と考えられている[4]。また、耳璫も晋代(265 - 316年)前後に特徴的な特殊な形状のもので、漢末から六朝初期に造られたと推測される浙江省杭州老和山搏室墓から出土したものと同型である[5]。
棺内から出土したのだから、被葬者が死亡時にこのネックレスとピアスをしていた蓋然性が高い。従来、1号墓は、伊都国王の墓で、伊都国が繁栄した2世紀に造られたとする見解が主流だった。たしかに、銅鏡の中には古いものもあるが、墓の築造年代は、副葬品の中で一番新しいものによって決まる。管玉と耳璫から判断すると、この墓は、3世紀のものであろう。
1号墓から土器は出土しなかったが、周溝の一部を共有して、ほぼ同時期に作られた土壙墓(2号墓)から西新町式土器が出土している[6]。この土器は、弥生時代末期から古墳時代にかけて作られたもので、この点からも、2世紀に作られたという従来の説を否定することができる。1号墓が2世紀ではなくて、3世紀の墓だとするならば、それは卑弥呼が死亡したとされる248年前後を含むことになる。
平原遺跡の被葬者は誰か
平原遺跡1号墓の副葬品が他に例を見ないほど豪華であることから、被葬者は、国王クラスと推定される。また、他の伊都国王の墓と比べて、武器が少なく、鏡が多いこと、棺内から出土した耳璫は、中国や朝鮮半島で流行した女性用耳飾りであることなどから、被葬者が女性であることがわかる。このため、従来、平原遺跡1号墓は、伊都国女王の墓と考えられてきた。しかし、この説は、以下の二つの理由から受け入れがたい。
第一に、平原遺跡1号墓は、これまでにそこから伊都国の王墓が発見された三雲遺跡や井原鑓溝遺跡がある怡土(いと)平野の中央部ではなく、その北西側の曽根丘陵の上にある。なぜ伊都国女王の墓が、王都があった怡土平野の中央部やあるいは王都を見下ろせる東側ではなくて、王都を遠望することができない、低くて平坦な西側斜面に造られたのか。曽根丘陵には、5世紀代の古墳群が造営され、曽根遺跡群を形成しているが、平原遺跡以前にここに造られた墓は、曽根丘陵東側の一つの先端に位置する石ヶ崎支石墓など、ごく少数で、なぜ伊都国女王の墓としてこの場所が選ばれたのか不可解である[7]。
第二に、3世紀の伊都国に女王がいたという仮説は、魏志倭人伝の記述に反する。魏志倭人伝には、伊都国に関して次のような記述がある。
官を爾支(にき)と曰ひ、副を泄謨觚(せもこ)・柄渠觚(へくこ)と曰ふ。千余戸有り。世々王有るも、皆女王国に統属す。
官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸世有王皆統屬女王國[8]
「世々王有る(世有王)」という記述を根拠に、卑弥呼の時代にも伊都国に王がいたと主張する人もいるが、そう解釈することは無理である。もしも、今なお王がいるのなら、官の爾支や副官の泄謨觚・柄渠觚の前に、最初に王の紹介があるはずだ。それに、王が皇帝に従属しているとか、諸侯が王に臣従しているというのならわかるが、王が別の王(女王)に従属するというのは、中国の語法からしておかしい。だから、「世有王皆統屬女王國」は、「代々王がいたが、今は王はおらず、伊都国の民は全員邪馬台国に従属している」と解釈するべきである。
なお、伊都国には代々王がいたという魏志倭人伝の記述は、正しい。『後漢書』(巻八十五 東夷列伝第七十五)によると、107年に、倭国王帥升等が生口160人を後漢の安帝に献じ、謁見を請うたという記述があるが、この「倭国王帥升」も伊都国王ではないかと言われている。事実、三雲遺跡や井原鑓溝遺跡にある伊都国王墓からは、前漢・後漢時代に作られた大陸舶載の鏡が大量に見つかっている。しかし、伊都国に王がいたのは2世紀以前の話であり、倭国大乱以降、伊都国に女王がいたことを示す文献上の証拠はない。多分、倭国大乱のときに、伊都王国は滅び、新たに台頭した邪馬台国に従属することになったのだろう。だから、3世紀に造られた平原遺跡1号墓を伊都国女王の墓とみなすことは困難である。
柳田康雄は、平原遺跡1号墓から出土した前漢鏡に関して、「この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう」[9]と言っている。柳田も平原遺跡1号墓が平原の王の墓と思っているようだが、3世紀に中国からそれほど高い評価を受けていた日本の女性としては、卑弥呼以外に考えられないのではないだろうか。
鏡の大半はなぜ中国製ではないのか
柳田の分析によれば、平原遺跡1号墓から出土した鏡40面のうち、中国本土で生産された舶載鏡は、今述べた前漢鏡1枚と後漢鏡1枚だけであり、それ以外は、仿製鏡、つまり日本製の鏡である[10]。これは、三雲遺跡や井原鑓溝遺跡とは大きく異なる平原遺跡の特徴である。三雲遺跡や井原鑓溝遺跡にある伊都国王墓から出土する鏡は、すべて舶載鏡で、仿製鏡はない。これに対して、平原遺跡1号墓には、多くの仿製鏡が副葬されていたのは、伊都国王にとっての鏡の役割と卑弥呼にとっての鏡の役割が根本的に異なるからであると考えることができる。
すなわち、伊都国王にとって、舶載鏡は、自分の権威を周囲に見せびらかすためのたんなる威信財であり、価値の低い仿製鏡は、所有するだけの値打ちがなかった。これに対して、卑弥呼にとっての鏡は、呪術的な儀式を行うための道具であり、中国製かどうかということは重要ではなかった。卑弥呼は、晩年(240年)に、魏の皇帝から鏡百枚余をもらったことになっているが、そより遥か以前から、彼女はシャーマン的なセレモニーを行って、人心を掌握していたわけだから、日本で、2世紀ごろの古い漢鏡をモデルに独自に製造していたのだろう。中国にない超大型鏡も、儀礼効果を高めるために、卑弥呼が独自に考案したと思われる。
なお、平原遺跡1号墓から舶載鏡がほとんど見つからなかったことから、卑弥呼が魏の皇帝からもらった舶載鏡のうち、最上級の1枚が魏と卑弥呼との臣従関係の証として卑弥呼の手元に残されたものの、大部分は、邪馬台国連合内部の国々に配布されたと考えることができる。実際、魏志倭人伝によると、魏の皇帝は、「還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし(還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝)」[11]と言って、銅鏡100枚等を下賜している。当事、邪馬台国は、狗奴国と戦争中であり、魏の皇帝が邪馬台国連合と狗奴国との戦いに介入していたことを考慮に入れるならば、卑弥呼が、同盟諸国の離反を防ぐために、威信財である舶載鏡を、同盟諸国に臣従関係の証として配布したと推定することが自然である。
卑弥呼はなぜ平原に葬られたのか
平原遺跡1号墓を卑弥呼の墓とすることに対しては、仿製鏡の問題以外にも、様々な疑問が投げかけられることだろう。なぜ邪馬台国の女王の墓が伊都国に造られたのか。副葬品が女王にふさわしいにもかかわらず、なぜ墓の大きさは、それとは不釣合いに小さいのか。副葬品の銅鏡は、なぜ割られていたのか。これらの謎は、卑弥呼はスケープゴートとして殺されたという以下の仮説によって解くことができる。
卑弥呼は、邪馬台国の民から惜しまれて自然死を迎えたわけではなかった。彼女は、太陽の巫女としての呪術的能力により権力を握ったが、晩年は、気候の寒冷化とそれに伴う不作により、その能力が疑問視された。太陽の衰弱と卑弥呼の老衰が同一視された。狗奴国との苦戦を強いられる中、247年3月24日に、部分日食が起き、卑弥呼は、持衰(じさい)と同様に、タブーを犯したという罪を着せられ、スケープゴートとして殺害された。だから、身分が高かった割には、墓の大きさが小さかったのだ。
人々は、卑弥呼を殺害後、彼女が愛用した鏡を叩き割り、卑弥呼の墓の棺外に副葬した。平原遺跡1号墓から出土した鏡は40面もあるが、その中でも最大の鏡は、日本では、内行花文(紋)八葉鏡と呼ばれる。卑弥呼が太陽崇拝の儀式に用いたものなのだろう。以下の写真を見ると、たしかに、その名が示すとおり、花や葉をデザインしたもののようにも見える。だがそれは現代の日本人の勝手な解釈で、そう解釈する必然性はなく、だから、中国では、「連弧文鏡」という、たんに弧が連なっている文様の鏡という意味しかない解釈中立的な名称が使われている。
原田は、古代中国における巴文様の変遷を辿りつつ、連弧文鏡が、花や葉をあしらった鏡ではなくて、太陽光線の放射(コロナ)を図案化した文様の鏡であるという結論を出している[12]。そうだとするならば、鏡連弧文鏡が粉砕されたことは、太陽の死を象徴している。
卑弥呼の死を太陽の死と解釈するならば、なぜ卑弥呼が平原に埋葬されたかを理解することができる。私は、福岡県甘木市にある平塚川添遺跡を邪馬台国中枢の遺跡とみなしているのだが、ここが邪馬台国だとするならば、平原遺跡は、邪馬台国から見て、太陽が沈む方向にある。現在の糸島半島は、卑弥呼の時代、文字通り糸島と言えるほど、周囲が海に囲まれており、平原遺跡も海を臨む位置にあった。だから、そこは、太陽が海に沈む場所だったのだ。そこは、太陽の巫女の墓にふさわしい場所だったのだ。
平原遺跡には、太陽崇拝の痕跡が見られる。木棺は、頭部が西に、足が東に向けられている。原田は、これを次のように説明する。
平原弥生古墳では、十月の下旬に、太陽が虹のようにかがやいて日向峠から顔をのぞかせたとき、その光が、女性と考えられる被葬者の股間をさすように、墳墓が作られているだけでなく、この女性を一の鳥居から遥拝させるようにしてあった。このばあいに太陽の光線は夫であり、被葬者の女性はその妻であったということができるのである。『日本書紀』には天日矛伝説として新羅の賤女が寝ていて太陽の光線でみごもった話を載せている。古代には、現実に「太陽の妻」という観念が実在したことを、平原弥生古墳は語っているのである。[13]
たしかに、これは重要な指摘であるが、被葬者の足元の方向に、柱を立てた跡があることを無視している。埋葬時には、柱があったわけだから、日向峠から顔をのぞかせた太陽は、その柱を通じて影を作り、その影は、太陽のペニスとして彼女の股間を貫き、太陽が昇るにつれて、ペニスが抜かれていった。これは、死んだ日巫女(卑弥呼)から、第二の日巫女を産み出すための再生の儀式であったと解釈できる。
被葬者の頭の方向には、二つの鳥居の跡があった。鳥居の下部もまた、女の股間の形になっている。太陽の黒いペニスは、日巫女の股間のみならず、鳥居という股間も貫いたことだろう。一の鳥居が、引用文にもあるとおり、日向峠の方向を向いていて、十月の下旬に、この鳥居から日の出を拝むことができるのに対して、二の鳥居は、下の図にもあるように、高祖(たかす)山の方向に向けられている。
二つの鳥居の方向には、どのような意味があるのか。原田によると、一の鳥居が稲刈の時に日が昇る方向を向いているのに対して、二の鳥居は稲の種が苗代で発芽する時に日が昇る方向を向いている。
要するに、一の鳥居が死の時期を、二の鳥居が生の時期を向いている。一の鳥居の方向に日巫女の遺体があり、二の鳥居の方向には何もないが、そこから昇る太陽に、人々は、日巫女の復活の願いをかけたのだろう。鳥居の上部は、文字通り鳥が居る止まり木であるが、地上と空を往復する鳥はこの世とあの世を往復する霊を象徴する。だから、日巫女の復活には、鳥居が必要なのである。一の鳥居がこの世からあの世に旅立つための出口だとするならば、二の鳥居は、あの世からこの世に帰還するための入り口なのである。
宇佐神宮とはどのような関係にあるのか
魏志倭人伝によると、卑弥呼の死後、男王が立ったが、国中が男王に従わず、内乱状態になった。内乱を収めるには、かつての倭国大乱の時と同様に、新たな日巫女が必要である。そして、248年9月5日に再生の時が来た。247年3月24日の日食は、太陽が食されながら西のかなたへと沈んでいく日入帯食で、人々はそこに太陽の死の予兆を見た。これに対して、この時の日食は、食された太陽が元に戻りながら上昇する日出帯食で、人々は、そこに死んだ太陽の復活を見たことだろう。こうして、卑弥呼の十三歳の宗女、壱与が、先代の日巫女の生まれ変わりとして立てられ、内乱状態だった邪馬台国の治安が回復した。
卑弥呼は、本来男神であった太陽神に仕える巫女だった。日巫女としての卑弥呼は、罪を着せられ、スケープゴートとして殺害された後、復活を遂げ、日御子、すなわち太陽の女神へと祭り上げられた。その復活のストーリーはイエス・キリストと同じである。太陽神、日巫女、日御子は同じ神格となった。これは日本版三位一体である。
日巫女復活と日御子誕生を記念して、邪馬台国の人々は、248年9月5日に太陽が昇った位置の海岸に神社を作った。それが、今日、大分県宇佐市にある宇佐神宮の起源なのではないか。以下の図が示すように、248年9月5日に日出帯食の太陽が昇った位置は、邪馬台国があったとされる甘木市を基点とすると、方位角が81.5度で、これは、宇佐神宮上宮の方位角、80.4度とほぼ同じである。
鷲崎弘朋によると、宇佐神宮が祀っている比売(ひめ)大神は、アマテラスの別名、大日靈貴神(おおひるめのむちのかみ)に相当する。
「大日靈貴」の「大(オオ)」は美称で、大日本帝国とか大英帝国の「大」と同じです。また、「大日靈貴」の「貴(ムチ)」は尊貴な人の意味で「・・・の尊(ミコト)」と同じです。そうすると、天照大御神(天照大神)の本名は「日靈」と言うことになりますが、この本名の「日靈」を日本書紀は「ヒルメ」と読ませています。ところが、この「ヒルメ」の「ル」は助詞の「ノ」の古語で、現代語で言えば「日の靈」です。すなわち、本源的には「日靈」=「ヒメ」と言うことになります。この天照大御神の本名「ヒメ」が、宇佐神宮の「ヒメ大神」と同一人物と言うのが私の判断です。[14]
邪馬台国の人々は、自分たちから見て太陽が昇る方向の海岸にアマテラスを祀る神社(宇佐神宮)を造って、太陽が沈む方向の海岸に死の空間(平原遺跡)を造った。この構図は、ヤマト(邪馬台)王朝が畿内に東遷した後も、維持された。すなわち畿内大和から見て太陽が昇る方向の海岸にアマテラスを祀る神社(伊勢神社)を造って、太陽が沈む方向の海岸に死の空間(出雲大社)を造った。
平原遺跡は、伊都王国という、邪馬台国の時代に滅んだ王国があった場所にある。同様に、出雲大社は、出雲王国という、ヤマト王朝によって滅ぼされた王国があった場所である。両者はともに、ヤマトにとっては、死を象徴する空間なのである。卑弥呼が罪を着せられ、旧伊都王国という死の空間に追放されたように、畿内の天皇も、例えば、後鳥羽上皇や後醍醐天皇などがそうだが、罪を着せられると、出雲国の沖合にある隠岐島に流された。
アマテラス神話とはどのような関係にあるのか
アマテラスが卑弥呼だとするならば、平原遺跡は、アマテラスの墓地ということになる。日本神話では、アマテラスは、岩戸隠れの際にイシコリドメが作った八咫鏡(やたのかがみ)に映った自分自身の姿を新しい神と間違って、外に引き出されたということになっており、太陽再生のための儀式に使われた鏡と考えられる。
『説文解字』は、咫(あた)に関して、「中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周尺なり」[15]と述べており、1寸を2.3センチメートルとすると、円周が八咫の鏡の直径は、46センチメートルということになる。上掲写真の鏡連弧文鏡(内行花文八葉鏡)は、直径が46.5センチメートルで、文字通り、円周が八咫の鏡である。ここから、原田は、平原遺跡から出土した超大型鏡は、八咫鏡であると主張している[16]。
平原遺跡からは、この他、五百箇御統玉(いほつみすまる)を連想させる約500個のガラス製丸玉、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を連想させるガラス製勾玉、天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)を連想させる素環頭太刀(そかんとうたち)一振りが出土している。平原遺跡とアマテラス神話の距離はかなり近いと言える。
出典
- ↑ 実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」, 原田 大六 (著), p.92-93
- ↑ 銅鐸への挑戦〈2〉殉職の巫女王, 原田 大六 (著), p.92-107
- ↑ 日本古墳文化―奴国王の環境, 原田 大六 (著), はしがき
- ↑ 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 柳田 康雄 (著), p.33
- ↑ 古代東アジアにおける耳璫の流伝,高山純,考古学研究 第14巻 第2号,1967年10月
- ↑ 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 原田 大六 (著), p.31
- ↑ 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 原田 大六 (著), p.155
- ↑ 三国志, 魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝, 陳 寿(編)
- ↑ 伊都国と邪馬台国, accessed Wed Jul 07 2010 17:17:12 GMT+0900
- ↑ 伊都国を掘る―邪馬台国に至る弥生王墓の考古学, 柳田 康雄 (著), p.192-193
- ↑ 三国志, 魏書三十, 烏丸鮮卑東夷伝, 陳 寿(編)
- ↑ 銅鐸への挑戦〈1〉太陽か台風か, 原田 大六 (著), p.171
- ↑ 実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」, 原田 大六 (著), p.209
- ↑ 卑弥呼と宇佐神宮の祭神, accessed Tue Jul 13 2010 13:38:43 GMT+0900
- ↑ 說文解字, 卷八 下, 中國哲學書電子化計劃
- ↑ 実在した神話―発掘された「平原弥生古墳」, 原田 大六 (著), p.163
