聖徳太子
出典: 一般システム学
『日本書紀』に登場する理想の聖人、聖徳太子は、厩戸王がモデルであるが、聖徳太子の偉業とされるもののうち、十七条憲法の制定や『三経義疏』の述作は、フィクションであり、冠位十二階の制定や遣隋使の派遣などは蘇我馬子の業績である。厩戸王の業績として確実なものは、斑鳩宮の造成と法隆寺の建立ぐらいである。
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聖徳太子非実在説
聖徳太子は、日本史上最も有名で、最も尊敬されている人物の一人であり、かつては1万円札の顔でもあった。しかし、歴史家の中には、聖徳太子の実在を疑う人が少なくない。その急先鋒が、大山誠一である。
大山誠一は、
- 用明天皇と穴穂部間人王の間に生まれた
- 601年に斑鳩宮を造って、そこに住んだ
- 現在の法隆寺のもととなる寺を建立した
という属性を持つ厩戸王(厩戸皇子)の実在を認めつつ、その厩戸王が
- 冠位十二階を定めて、門閥主義を排し、有能な人材を登用した
- 十七条憲法を制定して、天皇中心の国家理念と道徳を提示した
- 小野妹子を隋へ派遣し、隋と対等な国交を開くことに成功した
- 『三経義疏』を述作し、蘇我馬子とともに国史の編纂を行った
という属性を持つ聖徳太子であったことを否定する[1]。要するに、厩戸王は実在したが、聖徳太子は実在しなかった。聖徳太子は、『日本書紀』が捏造した、たんなる神話的存在に過ぎない。なぜなら、聖徳太子の実在を保証する、信頼に足る史料が何もないからだと言うのだ。
聖徳太子に関する伝説は、荒唐無稽なものまで含めて、たくさんある。だが、あらゆる伝説の基となった最古の史料は、法隆寺金堂の薬師像光背銘・釈迦像光背銘・中宮寺天寿国繍帳の銘文などの法隆寺関連史料と『日本書紀』の二つに限られる。通説では、薬師像は607年に、釈迦三尊像は623年に、天寿国繍帳は622年以降の7世紀前半に作られたとされている。もしそれが正しいとするならば、720年に完成した『日本書紀』よりも古い、したがって最も信用できる史料ということになる。果たしてそうだろうか。
今日、法隆寺は、現在の伽藍より古い若草伽藍跡が発掘されたことから、厩戸王が建立したままの姿でないと考えられている。もしも、『日本書紀』が伝えるように、厩戸王の死後、法隆寺が全焼したとするならば、現在法隆寺内にある釈迦三尊像や薬師如来像なども、推古朝時代のオリジナルではないことになる。もちろん、仏像が複製でも、銘文が当初の内容を正確に伝えているのなら、それによって、聖徳太子の実在を確認することができる。ところが、薬師像光背銘も釈迦像光背銘も天寿国繍帳銘文も、使われている言葉の新しさから、厩戸王の時代の文章とは考えにくい。
具体的に言うと、薬師像光背銘と天寿国繍帳銘文には、「天皇」という称号が使われている。天皇という称号を最初に使ったのは、唐の高宗で、674年のことである。これが日本に伝わり、689年の飛鳥浄御原令において正式に採用され、天武天皇に対して最初の天皇号が捧げられた。この時代を遡る、「天皇」の語を記した木簡も出土されていない。万葉集でも、持統帝以前の歌には、天皇という時には、大王という称号が使われている。『隋書倭国伝』が伝えているように、推古朝時代の天皇は、「大王」と呼ばれていたはずだ。釈迦像光背銘には、「法皇」という称号が見られるが、これは、「天皇」と仏典で釈迦を表す「法王」との合成語と考えられるので、釈迦像光背銘も天皇号の成立以降に書かれたとみなすことができる。
この他、これら三つの法隆寺関連史料には、「法興元」のような年号や推古天皇の和風諡号や「東宮」「仏師」など、当時使われていないはずの言葉が使われているという点をも考慮に入れると、法隆寺関連史料は、『日本書紀』以降に成立したと推定できる。実際、『日本書紀』は、これらの史料について、何も言及していない。
ゆえに、聖徳太子伝説の最古の史料は、『日本書紀』ということになる。成立時期を詐称しているからといって、書かれていることがすべて間違いというわけではないが、やはり信憑性は大幅に落ちる。そこで、以下、『日本書紀』を主要史料として、これまで聖徳太子の偉業とされてきた上記の四つの業績が、本当に聖徳太子のものであるのかどうかを、検討してみよう。
聖徳太子の業績の検討
冠位十二階
まずは、冠位十二階であるが、実は、『日本書紀』にも、聖徳太子がこれを始めたとは書かれていない。巻二二推古天皇十一年十二月の記事に、「始めて冠位を行ふ(始行冠位)」と主語なしの文で書かれているだけである。冠位十二階という制度は、日本を訪れた隋の使者も言及していることから、当時存在したことは間違いない。では、誰が制定したのだろうか。
聖徳太子が制定者とは考えられない。もし聖徳太子が、冠位十二階を制定したとするならば、なぜ、当時の最高権力者、蘇我馬子が官位を授与されなかったのかが説明できない。しかし、もしも蘇我馬子が制定したとするならば、自分で自分に官位を与えることはナンセンスだから、馬子が対象外になったことが説明できる。
馬子が冠位十二階の制定者であったことは、その動機からも説明することができる。厩戸王は、父が用明天皇で、母が欽明天皇の娘だったのに対して、馬子は、父が先祖不明の蘇我稲目で、母が当時すでに没落していた葛城氏の娘だった。厩戸王の血統が高貴だったのに対して、馬子の方は、かなり格が低かった。だから、馬子は相当な血統コンプレックスの持ち主だったと私は想定している。
コンプレックスとは、日本語で言えば、複合体である。精神分析学では、憧れと反感の複合体をコンプレックスと呼ぶ。馬子は、一方で高貴な血に憧れていたからこそ、娘を皇族に嫁がせ、天皇の外戚になろうとしたのであり、他方で、血統のランクがものを言う社会に反感を持っていたからこそ、冠位十二階の制度により、有能な人材を出自とは無関係に抜擢しようとした。これに対して、高貴な出自の厩戸王は、冠位十二階を制定する動機に欠けている。
冠位十二階は、高句麗や百済にあった類似の制度を模倣したもので、日本独自の制度ではない。伝統的権威を持たない蘇我氏が、権力の頂点を極めることができたのは、彼らが渡来人とのかかわりが深く、日本と大陸の先進文化の架け橋として大きな役割を果たしたからである。冠位十二階制度の日本への導入も、仏教の導入とともに蘇我氏らしい功績である。
十七条憲法
次に十七条憲法であるが、これに関しては、『日本書紀』は、巻二二推古天皇十二年(604年)四月の記事で、「皇太子、親ら肇めて憲法十七条作りたまふ(皇太子親肇作憲法十七條)」と、聖徳太子の作であることを明言している。だが、十七条憲法には、古くから偽作説がある。後の律令制度を先取りしたような規範が含まれていて、氏族制であった推古朝の時代にはふさわしくないからだ。特に、第十二条に登場する、大化改新以降の官制である「国司」が、問題視されている。森博達も、憲法十七条には、β群と共通の倭習(和製漢文)が見られることから、「憲法の制作年代は、β群の述作年代に近かったのだろう」[2] と推測している。文献学的見地からして、十七条憲法は、700年以降に編集に携わったβ群の執筆者による偽作とみなすべきである。
内容面でも問題がある。例えば、第十二条にある「国にふたりの君なし。民にふたりの主なし。(國非二君。民無兩主。)」は、推古天皇に勝るとも劣らない権力者であった蘇我馬子に対する当てこすりと受け取られかねない。実は中大兄王もこれと似たようなことを言っている。中大兄王が乙巳の変でやったように、蘇我氏の有力者を武力で排除でもしなければ、このような天皇親政の理念を口にできなかったのではないだろうか。
十七条憲法は、第三条において、天皇家とそれ以外の豪族との間には、絶対的な君臣関係があると主張している。曰く、「詔を承りては必ず慎め。謹しまざれば自らに敗れなむ。(承詔必愼。不謹自敗。)」 厩戸王は、これから有力豪族の支持を得て、天皇になろうとしているところである。それなのに、天皇になる前から、「自分が大王(天皇)になったら、お前たちに絶対的な服従を求める。命令に従わなければ、身を滅ぼすことになるぞ」と有力豪族たちに脅しをかけることができただろうか。そのようなことを言えば、天皇になれないどころか、命すら狙われかねない。
読者の中には、聖徳太子は皇太子だから、天皇になることは確定していたし、摂政の地位についていたのだから、馬子以上の権力を持っていたのではないかと反論する向きもあるかもしれない。しかし、厩戸王は、摂政でもなければ皇太子でもなかった。根拠となっている『日本書紀』巻二二推古天皇元年四月の記事には、「よりてまつりごとふさねつかさどらしむ(仍録揶政)」というように、「摂政」という言葉は動詞として使われており、地位を表す名詞としては使われていない。最初に摂政の職に就いたのは、藤原良房で、858年のことであり、それ以前には、摂政などという官職はなかった。また、立太子制度は、689年の飛鳥浄御原令において初めて採用された制度で、「厩戸豊聡耳皇子を立てて皇太子とす(立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子)」という『日本書紀』の記述は間違っている。なぜ、『日本書紀』の編者が、立太子制度が神武以来存在したと偽ったかに関しては、後で説明しよう。
厩戸王は、当時多数いた次期天皇候補の一人に過ぎなかった。そのような弱い立場にある厩戸王が十七条憲法を公表できたとは考えられない。十七条憲法は、『日本書紀』が編集されていた当時、支配的だった律令国家の倫理を、飛鳥時代に投射することにより捏造した偽作とみなすことができる。
遣隋使の派遣
続いて、遣隋使の派遣を考察しよう。607年に、日本が小野妹子を隋に派遣し、翌年、隋が裴世清を日本に派遣したことは、『隋書』『日本書紀』双方に記載されているので、史実である。問題は、この隋との外交の主導者が、聖徳太子、即ち厩戸王であったかどうかである。実は、『隋書』も『日本書紀』も、聖徳太子ないし厩戸王には、まったく何も言及していない。『日本書紀』』巻二二推古天皇十五年七月では、冠位十二階の時と同様に、「大礼小野臣妹子を大唐に遣す(大禮小野臣妹子遣於大唐)」といった主語なしの文で、記述されている。
遣隋使派遣における厩戸王の役割を論じる前に、もう一つの謎、即ち、当時の日本の天皇は、推古天皇という女帝であったにもかかわらず、隋側は、男王と記録している問題を取り上げよう。『隋書倭国伝』には、第一回遣隋使派遣に関して、次のような記述がある。
開皇二十(600)年、倭王、姓は阿毎(あめ)、字は多利思比孤(たりしひこ)、阿輩鶏彌(おおきみ)と号す、使を遣して闕(みや)に詣る。上、所司に其の風俗を訪わしむ。使者言う「倭王は天を以って兄と為し、日を以って弟と為す。天未だ明けざる時、出でて政を聴き、跏趺(あぐら)して座し、日出ずれば便ち理務(つとめ)を停め、云う、我弟に委ねん」と。高祖曰く「これ太いに義理無し」と。是に於て訓して之を改めしむ。王の妻、彌(きみ)と号す。後宮に女六、七百人有り。太子は名を和歌彌多弗利(わかみたほり)と為す。
開皇二十年、倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌、遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言倭王以天為兄、以日為弟、天未明時出聽政、跏趺坐、日出便停理務、云委我弟。高祖曰、此太無義理。於是訓令改之。王妻號雞彌、後宮有女六七百人。名太子為利歌彌多弗利。
日本の天皇には姓がない。また、当時はまだ立太子制度がなかった。しかし、隋は、中国の様式に当てはめようとしている。『隋書』は、日本の天皇の固有名を「アメ・タリシヒコ」と認知したわけだが、当時の日本人にとって、天皇の実名を口にすることはタブーだったから、日本の使者が口にしたであろう「アメノタラシヒコ」は、天皇の実名ではない。それは、天皇を意味する普通名詞、あるいはせいぜい、見本などによく書かれる「山田太郎」のような、天皇のデフォルトの名前である。だから、この天皇が誰であるかはわからないが、「山田太郎」と同様に、少なくとも男であることはわかる。妻がいるのだから、明らかに男だ。
「和歌彌多弗利」の方は、隋も普通名詞であることを認識している。「名A爲B」は「AをBと呼んでいる」という意味で、Bが固有名詞でないときに使うからだ。「わかみたほり」は、後に音韻変化により、日本の古語で「皇族」を意味する「わかんどほり」となる[4]。だから、隋は、たんなる皇子を皇太子と誤解したことになる。いずれにせよ、「わかみたほり」は、厩戸王や山背大兄王の実名に結びつかない。
『隋書』に登場する謎の男の天皇が誰であるかは、後で考えることにして、日本の使者と隋の皇帝・文帝との対話の解釈に入ろう。日本の風俗を問われた日本の使者が「わが国の王は、天を兄とし、日を弟としている。天は、まだ明けない時、出かけて政務を行い、あぐらをかいて座り、日が出ればやめて、弟に政務をゆだねる」と答えたので、皇帝は、「これはまったく理屈に合わない」と言って、教えてこれを改めさせたと書かれている。
日本側がばかげた風俗を紹介したので、皇帝が「ばかなことを言うな」と怒って、愚かな風俗を是正するように教育したのだろうか。そうではない。隋の皇帝は、中華思想の持ち主だから、辺境の野蛮人がばかげた習慣を持っていると聞けば、文化的優越を感じて満足することはあっても、怒ることはないし、ましてやその是正を指導するなどということはない。そもそも、もし、日本の使者が意味不明のことを言ったとしたなら、隋はそれを記録にとどめないはずだ。614年の遣隋使のように、注目に値しないと判断されれば、『隋書』には書かれない。
当時の日本の朝廷は、早朝からに中にかけて政務を行っていたのであって、深夜から早朝にかけて政務を行うという習慣はなかった。だから、この使者が話したことを、文字どおり受け取らずに、隠喩と解釈し、その隠れたメッセージを読み取らなくてはいけない。現代人は、隠喩に鈍感になっているが、ここで、古代のディスクールにおいては、メタファーが重要な役割を果たしていることを思い出さなければならない。中国の皇帝は、自分を天子、即ち「天の子」と認識し、日本の天皇は、自分を太陽神であるアマテラスの子孫と認識している。だから、日本の使者が言う「天」とは中国のことで、「日」とは日本のことと解釈できる。
すると、日本の使者のメッセージは、「わが国の王は、中国と日本の関係を兄と弟の関係と考えている。日の出の勢いの新しい文明国、日本が登場するまでは、中国は東アジアの盟主として、あぐらをかいで安閑としていられた。しかし、今や、中国は、国際政治の主導権を日本にゆだねる時が来た」ということになる。これを聞いた、隋の皇帝は、「ばかなことを言うな」と怒り、かつ軽蔑し、「隋と倭の関係は、兄弟ではなくて君臣の関係だ」と訂正を迫ったのではないだろうか。
『日本書紀』は、この1回目の遣隋使に触れていない。それはなぜだろうか。おそらく、外交交渉が失敗に終わったからだろう。『日本書紀』は、『旧唐書東夷伝』に書かれている631年の遣唐使にも触れていない。『旧唐書東夷伝』によれば、この時、唐の使者が王子と礼を争ったとある。このような外交的失敗は、記載しないというのが『日本書紀』の編集方針のようだ。
1回目は、失敗に終わったが、「タラシヒコ」と称する謎の男は、隋との対等外交をあきらめなかった。こうして、607年に、2回目の遣隋使が派遣される。『隋書』によると、隋の二代目皇帝・煬帝は、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す(日出處天子致書日沒處天子)」という、前回にもまして対等な関係を要求する国書を見て、不快感を示すが、日本に使者を派遣することにした。2回目は成功した。『日本書紀』も、隋の使者・裴世清の日本訪問について詳しく述べている。
『日本書紀』によれば、隋の国書は、「大門の前の机の上に」置かれただけである。だから、裴世清は、奥の内裏にいる天皇に直接会っていないと主張する人もいるが、『隋書倭国伝』には、裴世清が倭王(天皇)と会話を交わしたことがはっきり書かれているので、この説は成り立たない。だから、「大門(みかど)」は「大きな門」ではなくて、天皇に相当する人物と理解しなければならない。さらに、この時、裴世清が倭王と思って言葉を交わした相手は、『隋書』によれば「タラシヒコ」であるから、女性である推古天皇ではない。では、この倭王と称する謎の男は誰なのか。
候補は二人しかいない。蘇我馬子か聖徳太子かのどちらかである。『日本書紀』は、参列者に関しても詳しく述べているが、「皇子・諸王・諸臣」が参列しているのに、「臣」より上の「大臣」(蘇我馬子)も「皇子」より上の「皇太子」(聖徳太子)もいないということになっている。しかし、隋使謁見の儀のような重要なセレモニーに、この二人がともに姿を見せないということは考えられない。
いったい、遣隋使の責任者は、どちらなのか。おそらく、馬子であろう。2年後に新羅使が来日した時も、『日本書紀』の記事には、推古天皇と蘇我馬子大臣は登場するが、聖徳太子は登場しない。やはり、外交の主導権を握っていたのは、厩戸王ではなくて、馬子だったのだ。『日本書紀』に登場する「大門(みかど)」が馬子であることは、馬子の屋敷が「御門(みかど)」とよばれていたことからも裏付けられる。
ところで、なぜ馬子は、隋に対しては自分が大王だと詐称し、新羅に対しては推古天皇が大王であることを隠さなかったのか。それは、中国では、女性が天子となることが論外だったのに対して、新羅では、善徳や真徳といった女王が擁立されたことからもわかるように、女王に対する抵抗感は少なかったからだ。後に、唐の太宗は、新羅の善徳女王にたいして、女性を王にすると、周辺諸国から軽蔑されると警告している。日本を隋と対等な文明国として認めてもらおうとした馬子は、隋に対しては、女性が天皇であることを隠そうとしたのだ。
超大国・隋と対等な立場で国交を結ぼうとすることは、一見無謀な試みのように見える。しかし、馬子は、598年に隋が高句麗遠征に失敗し、そのため、北東アジアにおける軍事的パートナーを見つけなければならなくなったというタイミングを見計らって、強気の外交に出た。そして、それは成功した。
文化的事業
聖徳太子は優れた政治家であるだけでなく、優れた文化人でもあるということになっている。特に、『勝鬘経』、『法華経』、『維摩経』の注釈書である『三経義疏』は、聖徳太子の高度な仏教理解を示すものだと言われてきた。だが、『三経義疏』は、聖徳太子が著したとは言いがたい。『勝鬘経義疏』は、敦煌出土の『勝鬘義疏本義』と7割同文で、日本製ではなくて中国製と考えられている。『法華義疏』は、『東院資財帳』が示唆しているように、8世紀に行信が捏造したものである。『維摩経義疏』に関しては、『日本書紀』に言及がない上、内容的にも、聖徳太子よりも後代の杜正倫『百行章』からの引用があるなど、問題が多い。
聖徳太子は、馬子とともに、国史の編纂を行ったと言われるが、その成果である『天皇記』も『国記』も現代には残っていないので、その真偽を確かめる術はない。ただ、『日本書紀』によると、乙巳の変の時、『天皇記』も『国記』も蘇我蝦夷の邸宅内にあったとされているので、仮に、馬子と厩戸王の共同編纂だとしても、主として馬子が編集していたのであろうと推測される。
以上の考察から導くことができる結論は、聖徳太子の偉大な功績の一部はフィクションであり、一部は蘇我馬子の功績であるということである。
聖徳太子信仰
→ 詳細は「聖徳太子信仰」参照
太子信仰とは、聖徳太子を偉人化し、崇拝することである。8世紀初頭に成立し、『日本書紀』で、その原形が形成された。太子信仰は、8世紀初頭に起きた凶事の原因が、藤原氏が滅ぼした蘇我氏の怨霊のせいではなく、蘇我氏のせいで天皇になることができずに滅んだ厩戸王とその子孫たちの怨霊のせいにするために、藤原不比等によって広められた。藤原不比等は、史実の捏造により、厩戸王を聖人として描き、厩戸王の子孫を殺した蘇我氏を悪人として位置付け、蘇我氏を滅ぼした父、藤原鎌足の業績を顕彰した。
出典
- ↑ 「聖徳太子」の誕生
- ↑ 日本書紀の謎を解く―述作者は誰か, p.196
- ↑ 隋書,列伝第四十六,東夷,俀國, accessed Mon Jun 28 2010 12:04:02 GMT+0900
- ↑ 多利思北孤と利歌彌多弗利, accessed Mon Jun 28 2010 11:57:35 GMT+0900