聖徳太子信仰
出典: 一般システム学
聖徳太子信仰とは、聖徳太子を偉人化し、崇拝することである。8世紀初頭に成立し、『日本書紀』で、その原形が形成された。太子信仰は、8世紀初頭に起きた凶事の原因が、藤原氏が滅ぼした蘇我氏の怨霊のせいではなく、蘇我氏のせいで天皇になることができずに滅んだ厩戸王とその子孫たちの怨霊のせいにするために、藤原不比等によって広められた。藤原不比等は、史実の捏造により、厩戸王を聖人として描き、厩戸王の子孫を殺した蘇我氏を悪人として位置付け、蘇我氏を滅ぼした父、藤原鎌足の業績を顕彰した。
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聖徳太子信仰の成立の時期
聖徳太子の実在を否定した大山誠一は、太子信仰が作り出された背景を次のように説明している。
当時の日本を考えてなよう。白村江の敗戦以来、長い間の唐との断絶状態の中で、朝鮮半島を統一し隆盛を極める新羅に対抗して、何とか自前で律令国家を建設した。しかし、情報不足のために、本物の中国らしさが欠けている。特に、国家秩序の頂点にあるべき天皇の存在が明確でない。中国では、皇帝は、国家秩序の頂点であると同時に、すべての価値観の原点でもある。当然、日本でも、そこを明確にしなければならない。当時の為政者であった藤原不比等や長屋王らは、悩み、ようやくのことで留学帰りの逸材である道慈に、中国的聖天子像の創造を託したのである。そして、その結果誕生したのが〈聖徳太子〉であった。[1]
大山誠一は、この仮説に基づいて、聖徳太子信仰が成立したのは、道慈帰国した718年以降の『日本書紀』編集過程においてであると主張する[2]。しかし、これに対して、高森明勅は、以下の資料に基づいて、聖徳太子信仰の成立がもっと早かったと主張している[3]。
- 伊予湯岡碑文に「法王大王」という呼称がある。伊予湯岡碑文は、『釈日本紀』が引用した伊予風土記に掲載されている逸文で、伊予風土記は、和銅六年(713年)の官命により編纂されているので、伊予湯岡碑文は、それよりも古い。
- 法起寺塔露盤銘に「上宮太子聖徳皇」の語がある。この露盤銘には贋物説もあるが、本物なら、慶雲三年(706年)に、既に厩戸王が「聖徳」を備えた指導者とみなされていたということになる。
- 播磨国風土記の印南郡大国里条に「聖徳王の御世」という表記がある。播磨国風土記は、和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃に編纂されたと考えられている。
高森の主張を認めたとしても、聖徳太子信仰が成立したのは、厩戸王が死去した622年よりかなり後のことで、厩戸王の聖人化は、『古事記』や『風土記』が編纂されていた8世紀初頭とみなして大過ない。実際、『古事記』には、用明天皇が産んだ数多くの子供の中で、厩戸王だけ「王(みこ)」ではなくて、「上宮之厩戸豐聰耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」[4] というように「命(みこと)」を付けて、特別扱いしている。よって、このころから、厩戸王の聖人化が始まっていたと考えるべきである。
聖徳太子信仰の考案者
→ これに関しては「日本書紀」を参照してください。
『古事記』は、太安万侶が稗田阿礼の誦する所を筆録して成立したということになっているが、これをそのまま信じる必要はない。『大鏡』では、大宅世継(190歳)と夏山繁樹(180歳)という二人の老人が昔を物語るという形式で書かれているが、この二人の老人が実在したと考える人はいない。重要なことは、成立譚で誰が語ったことになっているかとか名目上の編集者が誰かではなくて、その編集に影響力を与えた権力者は誰なのかということである。
『古事記』や『日本書紀』が最終的に完成した当時の最高権力者は、藤原不比等であった。天武天皇が、681年に『帝妃』と『上古諸事』の記定の詔勅を下した時には、不比等はまだ権力の表舞台には上っていなかったが、少なくとも、701年以降に始まった『日本書紀』のβ群の編纂に影響を与えたはずである。その頃、天皇の外戚として、その名のごとく、他に並ぶものがないほどに権力の絶頂にあったことを考えると、不比等が、『日本書紀』の内容に口をはさまなかったと考えることは非現実的である。
大山は、長屋王や道慈の名も上げているが、両者の関与は、仮にあったとしても、副次的なものに過ぎなかったであろう。長屋王が権力の頂点に立つのは、『日本書紀』が完成し、不比等が死んだ後である。また、道慈が帰国したのは、718年であり、『日本書紀』の完成まで1年ほどしかない。道慈は、森博達がβ群の述作者と推定している山田史御方のように還俗はしなかった。また、道慈が、唐に留学していて、唐代北方音にある程度通じていたと考えられるのに対して、β群の述作者はそうでなかったといったことを考えるならば、直接編集にはかかわらなかったと判断できる。
『日本書紀』改竄の動機
では、藤原不比等は、なぜ『日本書紀』の編集責任者であることを名乗らなかったのだろうか。実は、これは極めて藤原氏らしいやり方なのである。藤原一族というのは、経世会のように、自らは権力の表舞台に立つことなく、傀儡を背後で操るキングメーカー型の政治家集団である。鎌足も不比等も、生前は最高位の太政大臣になっていない。しかし、それ以上に、不比等には、『日本書紀』の編集責任者であることを表立って名乗ることができない事情がある。
『日本書紀』によれば、馬子の孫・入鹿は、人望を集めていた聖徳太子の子・山背大兄王の一族を殺害し、そのため入鹿は、父蝦夷とともに、乙巳の変において、中大兄皇子と鎌足たちから、正義の報復を受けて、殺された。私たちは、この勧善懲悪のストーリーをそのまま受け入れてよいだろうか。
『日本書紀』をもっと詳しく読もう。そこには、山背大兄王を直接襲撃したのは巨勢徳太だと明記されている。もしも乙巳の変が、聖徳太子の子孫を絶滅させたことに対する正義の報復ならば、入鹿とともに、巨勢徳太も乙巳の変で処罰されてもおかしくないはずだ。ところが、この巨勢徳太は、大化の改新で、処罰されるどころか、左大臣にまで昇進している。これは一体どういうことなのか。
『日本書紀』と同時代の史料『藤氏家伝』によると、入鹿は、「諸皇子」とともに謀って山背大兄王を殺害したとあるが、この諸皇子とは誰のことなのか。一人は、入鹿が、山背大兄王に代えて、天皇にしたいと考えていた古人大兄皇子であろうが、「諸皇子」は複数形であるから、少なくとも、もう一人必要である。巨勢徳太が、軽皇子の側近であることを考えるならば、軽皇子も一味であったはずだ。
『上宮聖徳太子伝補闕記』は、蘇我蝦夷、入鹿、軽皇子、巨勢徳太、大伴馬甘連、中臣塩屋牧夫を主謀者として列挙している。『上宮聖徳太子伝補闕記』は、平安時代前期に書かれた本だが、『日本書紀』や『四天王寺聖徳王伝』に疑問を持った匿名の著者が、古書を調査して書いた本であり、無視できない。このリストを見ると、蘇我氏以外は、大化の改新で権力の座についた人物であることがわかる。即ち、大化の改新によって、軽皇子は孝徳天皇として即位し、大伴馬甘連は、巨勢徳太が左大臣になった時に右大臣となった。
中臣塩屋牧夫は、中臣(藤原)氏であること以外は何もわからないが、この男の正体は何か。大化の改新で、軽皇子が天皇になることができたということは、軽皇子と中大兄皇子の双方と親しくしていた媒介者がいたということである。そのような人物は、中臣(藤原)鎌足以外考えられない。だとするならば、中臣塩屋牧夫は、鎌足ということになる。
鎌足は、『六韜』を愛読したマキャベリストで、梅原猛が洞察したように、蘇我氏内部の争いを利用しながら、蘇我氏を弱体化させ、蘇我氏に代わって権力を手にした。即ち、入鹿を味方にして蘇我系の山背大兄王一族を殺害し、蘇我倉山田石川麻呂を味方にして入鹿と蝦夷を殺害し、蘇我日向に讒言させて、石川麻呂に謀叛の疑いをかけ、自殺に追い込み、後にこの讒言が嘘であるとして日向を筑紫大宰師へと左遷する。この鎌足の謀略により、蘇我氏は完全に没落する。[5]
その中でも、クライマックスは蘇我入鹿の暗殺である。石川麻呂は三韓貢進の日だと言って入鹿を内裏に誘き寄せ、石川麻呂が上表文を読み上げている時に、中大兄皇子自らが、入鹿を切りつけた。鎌足も弓矢を携えて、暗殺に参加した。『日本書紀』は、そう書いている。しかし、これは、中大兄皇子と鎌足を英雄と印象付けるための脚色ではないだろうか。
もし本当に、当日、新羅、百済、高句麗の使者が来ていたならば、彼らは目撃したこのショッキングな事件を本国に報告するはずだが、三韓の歴史書はどれもこの事件を記録していない。それならば、三韓の使者が来たというのは、入鹿を誘き寄せるための嘘で、入鹿は、三韓の使者を装った刺客によって殺されたと考えることができる。こう考えれば、従来、不可解とされてきた古人大兄皇子の目撃証言「韓人、鞍作臣[入鹿]を殺しつ(韓人殺鞍作臣)」を理解することができる。
乙巳の変を伝える『日本書紀』の皇極紀は、森博達の分類では、α群に属するが、乙巳の変の記述には、四箇所もの文法的誤りがある[6]。このことは、皇極紀は、中国人によって監修されたが、乙巳の変の部分は、後に日本人の手によって改竄が行われたということを示している。大化の改新について書かれた孝徳紀も、α群に属するが、大化の改新が行われたことを示す詔勅群には、大量の語法上の間違いがある。大化の改新と呼ばれる、『日本書紀』に描かれているような画期的な政治改革が行われたというのは、後世の捏造である。
不比等は、大化の改新を捏造して、中大兄皇子と父の鎌足の功績を美化しようとした。そして、そのためには、二人によって排除された蘇我氏を悪玉にしなければならない。蘇我氏を悪玉にするには、入鹿によって殺害された山背大兄王を、したがってその父である厩戸王を聖徳太子として善玉にしなければならない。こうして、周知の勧善懲悪のストーリーが生まれた。
私は、2003年に出版した『縦横無尽の知的冒険』でこの見解を発表した。その影響を受けてということはないと思うが、2009年に出版された本では、大山は、それまでの説明を修正して、私の見解に近い立場を取るようになった。
蘇我馬子の功績を移し替えるには、馬子の周辺にいた人物を探さねばならない。蘇我一族の誰かということになる。その点で、確かに厩戸王はふさわしい。仏教興隆など馬子の功績は、実は厩戸王との共同事業であったことにするのである。しかも、馬子に崇峻天皇暗殺というような濡れ衣を着せれば、馬子は本当は悪人だったということになり、仏教興隆の真の功労者は厩戸王つまり聖徳太子だけということになる。その上で、乙巳の変を正当化するのであるが、そのためには、蘇我入鹿を悪者に仕立てねばならない。厩戸王の子孫が飛鳥の勢力に減ぼされたことは確からしい。そこで、その首謀者を蘇我入鹿とすれば、蘇我氏は聖天子たる聖徳太子の子孫を滅ぼした悪者ということになる。当然、その悪者を退治し、大化改新により聖徳太子の理想を実現した中大兄王と中臣鎌足は英雄となる。やや込み入った論理であるが、このようにして、本来は蘇我王権の一員であったはずの斑鳩の厩戸王が、むしろ蘇我氏と一線を画する偉大な人物として描かれることになったのである。[7]
聖徳太子信仰の成立背景
しかしながら、この説明は、なぜ『日本書紀』が、聖徳太子という人物を捏造し、それを神のごとく崇めるのかという問いに対する答えとしては、不十分である。聖徳太子信仰の萌芽は、712年に完成した『古事記』に登場する「上宮之厩戸豊聡耳命王」という言葉に見て取れるのだから、712年から『日本書紀』が成立する720年にかけて、不比等がどのような状況に置かれていたかを見なければならない。
鎌足は、得意の権謀術数により、晩年は天智天皇のもとに強大な権力を握る。ただ、鎌足にとって、一つ計算外のことが起きる。壬申の乱である。天武天皇の勝利により、天智側と結びついていた藤原家は一時没落の危機に晒されたのだ。しかし、鎌足の子・不比等は、我が子(草壁皇子)を次の天皇にしたいと願う鵜野讃良皇女(天智天皇の娘で天武天皇の后)に接近し、権力の中枢と結びつくことに成功した。天武天皇の死の翌月、有力な天皇候補だった大津皇子が、冤罪により自殺させられている。明らかに不比等の謀略である。ところが、草壁皇子は、天武天皇の喪が明ける前に、28歳の若さで死亡する。
そこで、鵜野讃良は、草壁皇子の遺児である軽皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、自ら持統天皇として即位する。4年後、藤原京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。不比等は、皇位継承を確実にするために、689年の飛鳥浄御原令において皇太子制度を作り、軽皇子を最初の皇太子にした。『日本書紀』が、立太子制度が神武以来存在したように書いているのは、立太子制度を既成事実化するためである。天武天皇の第一皇子で、持統朝で太政大臣を務めていた、つまり有力な天皇候補だった高市皇子が死亡した(暗殺された?)翌年、持統天皇は皇位を孫の軽皇子に譲った。これが文武天皇である。ところが、文武天皇は、25歳の若さで死んでしまった。
そこで、やむなく文武天皇の母が、文武天皇の遺児である首皇子が成長するまでの時間を稼ぐために、元明天皇として即位する。3年後、平城京に遷都しているが、これも死穢を嫌ってのことである。この時、不比等は、こう考えたはずだ。自分の孫・首皇子は病弱で、先が不安だ。持統系皇族の外戚となって、権力を掌握しようとする自分の計画は、なぜこうもうまくいかないのか。これは、きっと怨霊のたたりがなせる業に相違ないと。
不比等の父は鎌足で、持統の父は天智天皇(中大兄皇子)である。鎌足と中大兄皇子は、蘇我一族を滅亡させた。だから、「子孫断絶となった蘇我一族の怨霊は、鎌足と中大兄皇子の子孫を断絶させることにより、復讐をしている。白村江の戦いや壬申の乱での敗北も草壁皇子や文武天皇の夭折も、すべて蘇我氏のたたりだ」と不比等は考えたに違いない。
怨霊の災いから逃れるには、遷都のような消極的な方法ではなくて、鎮魂という積極的な方法が必要である。歴史書を執筆し、蘇我氏の功績を絶賛し、彼らの魂を慰めなければならない。だが、そうすれば、蘇我氏を滅ぼした鎌足と中大兄皇子が悪玉になってしまう。そこで、不比等は、「蘇我氏を悪玉と善玉に分割し、善玉の中に、蘇我氏全体を象徴する架空の人物を入れ、その人を神として崇め奉ろう。そうすれば、一方で藤原氏の面子をたてながら、他方で蘇我氏の供養をすることができる」と考えたわけだ。
怨霊信仰としての聖徳太子信仰
かくして、聖徳太子信仰が誕生する。聖徳太子信仰が誕生したのは、文武天皇死没の5年後にあたる712年頃である。法隆寺が再建されるのもこの頃である。梅原猛は、法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂するための寺であると主張したが、この見解に対しては、従来、なぜ山背大兄王や入鹿ではなくて、厩戸王が怨霊とされなければならないのかという批判が投げかけられてきた。だが、もしも、聖徳太子を厩戸王という特定の個人ではなくて、蘇我一族全体を祭った神と考えるならば、そうした疑問は氷解する。
古くから日本には、子孫断絶となった政治的敗者は、たたりをなすと考える怨霊信仰がある。その際、複数の被害者が、一つの神へと祭り上げられるという現象がしばしば起きる。例えば、『古事記』や『日本書紀』は、大和三輪山のオオモノヌシと出雲のオオクニヌシを同一神としているが、両者は本来、別々の神だったはずだ。それが、邪馬台(やまと)の東征の被征服者という共通項によってくくられ、同一視されてしまった。
この時代には、まだ怨霊信仰はなかったというのが定説になっているが、『日本書紀』には、瓊瓊杵(ににぎ)に嫁いだ磐長姫(いわながひめ)が、醜さゆえに拒否されたことを恨み、その子孫が短命になるように呪ったという、怨霊の祟りに関する説話がある[8]。怨霊も崇拝すれば、逆に味方になるという発想から、磐長姫は、不老長生の神として信仰され、全国の浅間神社で、妹の木花開耶姫(このはなのさくやびめ)とともに祀られている。だから、『日本書紀』編纂当時、既に怨霊信仰の習俗はあったと考えてよい。
藤原氏の怨霊に対する恐怖心は、不比等の四人の子が相次いで死亡するという737年の劇的な出来事を境に、エスカレートしていく。その頃になると、怨霊に対して、恥も外聞もなく自分たちの非を認め、高位高官を追贈するなど、怨霊鎮魂のサービスも過大になる。だが、不比等の時代には、藤原氏はまだ面子にこだわっていたので、聖徳太子信仰が怨霊信仰の産物であることが非常にわかりにくくなっている。
『日本書紀』は、天皇の命を受けて、舎人親王が編集したことになっている。しかし実際には、『日本書紀』は、中立的な立場から編集された歴史書ではなく、藤原氏の政治的思惑によって、歪曲されている。不比等は、それをもカムフラージュするために、自分を『日本書紀』の編集者であることを公言しなかった。
私たちは、藤原氏による歴史の歪曲と怨霊信仰のからくりを理解し、聖徳太子の正体を正しく認識しなければならない。特にこれまで極悪人扱いされてきた蘇我馬子を再評価するべきだ。蘇我馬子は、野蛮だった日本を、国際的に通用する文明国にした有能な政治家だったのだから。
出典
- ↑ 聖徳太子と日本人, p.198-199
- ↑ 「聖徳太子」の誕生, p.101
- ↑ 「冤罪」事件としての聖徳太子虚構説, accessed Mon Jun 28 2010 08:54:10 GMT+0900
- ↑ 古事記, accessed Mon Jun 28 2010 09:07:28 GMT+0900
- ↑ 隠された十字架―法隆寺論 , 第二部第二章
- ↑ 「大化改新」隠された真相―蘇我氏は本当に逆臣だったのか?, p.96-98
- ↑ 天孫降臨の夢―藤原不比等のプロジェクト, p.187-188
- ↑ 『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二,新編日本古典文学全集 (2) 日本書紀 (1), p.140-142