環境適応

出典: 一般システム学

2009年7月20日 (月) 15:58時点における 永井俊哉 (会話 | 投稿記録) による版
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環境適応とは、生命システムが、環境の下で生き延びるために変化することであるが、それは、システムが、たんに周りに合わせるということではない。

環境とは何か

システムが複雑性を縮減する時、選び取られる可能性がそのシステムの構造であるのに対して、排除される他の可能性が、そのシステムの環境である。環境は、他のシステムの構造として実在する場合もあれば、可能性にとどまる場合もある。日常的には、環境という言葉は、物理的に周りを囲む空間のことを意味するが、こうした実在的環境だけでは、情報システムや社会システムを説明することができないので、可能的環境も環境概念の中に入れなければならない。

構造は、複雑性の落差によって環境から境界付けられる。もっとも、あるシステムにとって構造である部分と環境である部分が、他のシステムにとっては、それぞれ環境と構造に相当するということがある。例えば、冷たい水中に熱い鉄球を投げこんだとしよう。熱力学的には、水のほうが、鉄よりも温度が低いから、水は低エントロピーの構造で、鉄球はそれよりもエントロピーの高い環境ということになる。しかし鉄元素に着目すれば、水中には、鉄イオンは微量しか溶けておらず、鉄元素の存在確率は鉄球の方がはるかに高いので、鉄球は低エントロピーの構造で、水はそれよりもエントロピーの高い環境ということになる。だから、構造と環境の区別は、自己と他者の区別と同様に、相対的で反転可能である。

適応とは何か

環境に適応するということは、システムが生き延びるために、システムが、実在的環境と同一にならなければならないということだろうか。そうではない。システムが環境と平衡状態になるということは、システムの死を意味する。システムが生き延びるためには、構造と環境の間にある複雑性の落差を解消するのではなくて、維持しなければならない。環境に適応するために変えなければならないのは手段であって、目的は自己同一である。

例えば、私たちは、環境の気温が上がると、汗をかき、気化熱を奪うことで体温の上昇を阻止する。気温が下がると、震えることで熱を出し、鳥肌を立てることで汗腺の発汗機能を抑制し、体温の下降を阻止する。もし何もしなければ、体温は環境の温度に左右され、体温の不確定性が増大する。この不確定性を縮減し、体温を一定に保つことで、身体というシステムは環境との複雑性の落差を維持する。

このように、変わらないためには変わらなければならないというのが環境適応の本質である。もしどう変わってもかまわないのなら、環境に適応する必要はなく、環境の変化に身を委ねればよいということになる。そのとき、水に溶ける氷のように、構造と環境の差異は消滅し、システムは死ぬ。

「独裁者が上司になるという環境の変化の場合、イエスマンとなり、上司との複雑性の落差を解消することで、環境の変化に対応しなければならない。上司の命令とは他のように複雑性を縮減するならば、粛清されてしまうから、かえって生き延びることができないではないか。」と反論する人がいるかもしれない。

この問いに対して、こう答えることができる。もし、その組織から逃げることができず、イエスマンになるしか他がないのなら、その人は、初めから独立したシステムとしては死んでいるということになる。組織に埋没している人は、独立したシステムとしては死んでいるが、組織という拡大身体の一部としてなら、生きている。その人は、組織が、環境に適応して生き延びることができるかどうかという形で、独立した個人と同じ問題に直面する。

環境適応と変化適応

環境に適応しようとすると、変化に適応しにくくなり、変化に適応しようとするならば、環境に適応しにくくなる。生命システムは、スペシャリストかジェネラリストかという選択を迫られる。環境適応したがために変化適応できなくなって、滅んだ種もある。例えば、恐竜がそうである。

中生代に繁栄を誇った恐竜がなぜ絶滅したのかは、いまだに謎である。かつて小惑星衝突説が有力であったが、この説では、恐竜が小惑星衝突前から徐々に滅亡に向かっていったことが説明できないため、現在では、マントル・プルーム説が有力である。

この説によれば、地球内部のマントル・プルームの周期的上昇が、全世界的規模の火山活動の活性化や海水面の低下や寒冷化をもたらし、それにあわせて、古生代ペルム紀中期から現在までの2億5000万年間に、地球の生物は、約2600万年の周期で計11回大量に絶滅したとのことである。恐竜やアンモナイトが絶滅した白亜紀末は、10回目の大量絶滅だった。

恐竜が繁栄したジュラ紀と白亜紀は、高緯度地域を含めた地球全体が高温多湿で常夏の無氷河時代であった。この時代では、変温動物の方が、哺乳類のような恒温動物よりもエネルギー効率がはるかによく、より環境に適応していた。この環境に適合しすぎた恐竜は、白亜紀末の気候の寒冷化を生き抜くことができず、鳥類を除いて、絶滅した。

それにしても、2心房2心室を持ち、すばやい運動をするなど、現代の哺乳類と比べても遜色ないぐらいに高度に進化した恐竜が絶滅し、同じ変温動物でも、恐竜と比べると進化の遅れていたワニやトカゲなどの原始的な爬虫類の方は、今に至るまで生き延びているというのは、皮肉なことである。

従来の自然淘汰説は、環境の安定を前提に、その環境に最も適合した種が生き残ると主張してきた。しかし環境が激変する局面においては、むしろ環境に適合すべく高度に進化した種の方が、絶滅する傾向にある。現在は、人間を中心とする哺乳類の全盛期であるが、人間は高度に進化しすぎた結果、環境の激変を生き延びるだけのたくましさを失ってしまった。人間よりもゴキブリのような下等な動物の方が、次の大量絶滅を生き延びる可能性が高い。

話を一般化しよう。環境適応力と変化適応力は、二律背反の関係にある。環境に適応しないと、滅亡するか、あるいは周縁で冷や飯を食うことになる。他方で、特殊な環境に適応し、中心に近づけば近づくほど、環境の変化に対応することができずに、滅亡するリスクを抱えることになる。

例えば、ナチ占領下のフランスという環境のもとでは、フランス人は、レジスタンス運動を行ってナチに抵抗するか、それともナチに協力するかという選択肢を迫られる。与えられた環境のもとで保身を図るならば、ナチの忠実な犬となった方が有利である。しかしその場合、ナチのフランス支配が崩れ、フランス人の自治が回復した暁には、同国人から売国奴として訴えられるはめになる。このジレンマを避けるために、中間的な道を選ぶこともできる。しかし通常こうもりは一番嫌われる。二つの選択肢の欠点だけを抱え込むことになる。

もっと身近な例を挙げよう。豊かで安定した生活を送るためには、個人で自立して開業するよりも、大企業の中で立身出世した方が良いとかつての日本人は考えた。しかし大企業の中に埋没すればするほど、その企業が倒産した時、その企業と運命をともにしなければならないリスクが増える。会社人間に徹し、中間管理職の地位を手に入れたサラリーマンも、倒産あるいはリストラで路頭に迷えば、ただの中年のおじさんで、再就職は難しい。

会社人間はもう古いと思うかもしれない。実際、若いサラリーマンは、会社の中でしか通用しないジェネラリストから会社の外でも通用するスペシャリストへと転身すべく、資格取得や特殊技能の修得に余念がない。企業自体、系列の中でしか通用しない下請けからグローバルマーケットで通用するオンリーワンカンパニーへ脱皮しようとしている。しかし得意分野に特化すればするほど、その専門と運命をともにしなければならないリスクが増える。例えば、レコードの針の製造に特化すると、レコードからCDへの技術革新の流れの中で淘汰される可能性が増える。

高学歴の人ほど就職は有利というのが世間の通念だが、日本の文系の大学院を出ると、かえって就職は難しくなる。大卒ならつぶしがきくが、大学院で専門を身に付けると、人材としては使いにくくなるからだ。理系でも、博士課程まで行ってしまうと、一般企業への就職は難しくなる。研究職を手に入れることができず、勤務していた予備校も少子化で倒産し、目下タクシードライバーとして糊口をしのいでいる博士号所有者はたくさんいる。そういう人たちは、自分の専門と一緒に心中してしまった人たちである。